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仲田恵利花とアーの人のアーの人こと奥平聡のブログ

時事ネタコントの突っ込んだ話を書きます

「65 ワンオペ育児CMでムーニー炎上」について

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元ネタ

【炎上案件】ムーニーのCMがひどすぎるので、燃料を注ぎます。

考えたこと

これ、やるかどうかだいぶ悩みました。

ブログでは何度も書いてますが、僕は男性≒強者であることに無自覚であっちゃならないと思っていて、

ムーニーに憤ってる人々、孤独な子育てで苦しんでいるひとにとっては、

まぎれもなく加害者だからです。

ムーニー&ユニ・チャームだっせぇ!ってやるのも天に唾だし、

ヒステリー女やーい!ってやるのは論外だし。

そこで、

「苦労を美化すること」

にフォーカスしました。

美化すること

この「その時間が、いつか宝物になる」が怒りを買う理由は、

苦労させた側が美化することで押し付けてるからなんですよね。

そういった意味で、突然でっかい話になりますが、

「特攻隊美化」とかに近い話だと思うんです。

だからアレも、私みたいに無神経にわー特攻隊ロマンだわーと見れる人間もいれば、

美化したって死んだ当人や家族は報われない!特攻させたお偉方の免罪符になるだけだ!

と怒るひともいるわけです。

もっと残酷な話をすると、聞きかじりの民俗学では、

蘇民将来とかいって、旅人を村ぐるみで強盗殺人したあとに、

神様が訪れて宝物を残して消えた、みたいな伝説を作って祀るケースが良くあるそうですね。

アイヌや北米ネイティブアメリカンの、狩りの対象となる動物を神様の仮の姿として祀るのも同じようなノリの感じがします。

つまり、共同体のために犠牲にした相手に対して、

美化・神聖化するというのはおそらく人間が持ってる本能的な何かなんです。

もちろん、美化する物語をつくるのは犠牲を強いた強者の側ですから、

当然それはある種の暴力だし、あらゆる物語は疑ってかかろう、というのもある種だたしい判断だと思います。

そして当然、犠牲を強いられる側の人間にそれなりのパワーと発言力が伴えば、

今回のムーニーのように炎上するわけです。

物語の否定

さて、この「美化する物語は疑ってかかれ」というのは、どういうことなのでしょうか。

偶然にも、コメントくれた方が言及してくれたんですが、

これって「救済の否定」なんですよね。

世の中はとってもとっても理不尽で、人は何かを、場合によっては誰かを犠牲にしないと生きられなくて、誰もがキズや矛盾や罪悪感を抱えているわけです。

そーゆー自分に、整合性や正当性を与えてくれるのが、物語のチカラです。

例えば女の子にフラれたときに、

「あのときこうしなかった自分がいけなかった」

「フラれたおかげで今がんばれてる」

とか言うのがその一番身近な例です。

ぬっるいぬっるい先進国日本ではこんなもんでしょうが、

もっと人生がハードな世界ではもっとハードな物語がないと自分を保てないだろうし、

自分だけでは物語をつむげずに、宗教や国家が与えてくれる物語に頼ることもあるでしょう。

超ハードな世界ではあれですよ。「死後報われる」ってやつ。

そして、その物語は大勢で共有できればそれだけ治癒のチカラも強くなるので、

大勢で共有できる物語は支配的になるし、その物語を否定する声は押しつぶされる。

なぜなら、物語を否定されると自分の傷が癒えないからですね。

弱い者たちがさらに弱いものを叩く、ってやつです。

ムーニー炎上の意義

ムーニーの物語が炎上した。

つまりこれは、

物語による精神的な救済より、

行動による具体的な救済を選ぶ社会になった、という事だと思います。

動画のコメント欄では、二者択一のように書きましたが、

これって段階を踏むものなのかもしれません。

精神的な救済→具体的な救済を求めて死屍累々→具体的な救済

って感じで。

さらっと炎上したことを考えると、

子育てを押し付けられる弱者としての女性は、

もう三番目のレベルまで来たということでしょう。

素晴らしいと思います。

一方で、社会全体が具体的な救済を求めているのだとしたら、

これはちょっと困っちゃいます。

なぜなら、私が時事ネタコントをやってるのは、

具体的な救済を求めて死屍累々するより、笑って歌って踊ろうよ、ということだからです。

なので、ひとつだけ最後っ屁。

 

具体的な救済を求めて死屍累々を築いているあなた、

賛同者に「よりよい未来のため」という物語を押し付けて犠牲にしていませんか?

戦って犠牲になった仲間に対して「ただ一人立ち上がった自由の闘士」などと美化してはいませんか?